2023/11/30

 朝起きたら10:30くらいで、やや頭が痛かった。私は何もしなかったら、こんな感じの生活をする人間なんだなということを再び実感した。

 昨日なくしてしまったと思しきワイヤレスイヤホンがマウンテンパーカのポケットの中から見つかった……! ほんとうによかった! 調子に乗ってBUMP OF CHICKENのアルバムを一つ聞いたり、STAN SMITHをきれいにしたりした。

 イスマイル・カダレ『砕かれた四月』読了。アルバニア高地を舞台に、血で血を贖うような掟に従うジョルグらの生と、婚姻旅行にやってきたヴォルプシ夫妻の生を関係づけるように描いている。とりわけ、古い掟のために殺したくもない相手を殺して四月十七日までの休戦を生きているジョルグと、一度ジョルグの姿を見てしまったために婚姻旅行中にも関わらず彼に強く執着してしまうディアナが惹かれ合い、お互いを探す展開には心打たれる。

 とりわけ、印象的な描写がいくつかある。たとえば、こういう箇所。

「ときおりジョルグは、日々の流れについて思いを馳せた。時はまったく思いがけない歩みを見せる。ある時刻まではいつまでも終わらないかに思   えた一日が、桃花から一瞬の震えとともに落ちる水滴のように突然砕け、そして消えていく。四月に入っても、まだ春にはなりきっていなかった。アルプスの上に帯のように広がる空の青さが、ときおり苦しいまでに彼にのしかかった。もう四月か。どこの旅籠でも、居合わせた旅人どうし、そう口にした。そんな時、父が休戦期限についてした忠告が思い出されるのだった。忠告そのものやその断片ではなく、むしろ最後の「息子よ」という言葉だけが。すると同時に、 十七日のところですっぽりと断たれた四月が心に浮かぶ。誰もが自分の四月をまるごと持っているというのに、ジョルグの四月だけは途中で切り落とされている。だがそんなことを考えるのはもうやめて、彼は旅人たちの話に耳をそばだてた。この連中ときたらずだ袋のなかにはパンや塩もないくせに、よもやま話にはまったくこと欠かないのだ」

(平岡敦訳『砕かれた四月』、白水社、152頁)

 訳者解説によれば、この作品は『誰がドルンチナを連れ戻したのか』と対をなす作品らしい。ドルンチナを連れ戻すコンスタンチンのように、ジョルグを探し求めるディアナを描き、前者が中世の話で後者が19世紀前半の話であるにも関わらず、随所で呼応している。 

 イスマイル・カダレの描く作品にはアルバニアに対する思い入れが強く現れていて、個々の作品が連関をもって読者の前に差し出されている。幻想と現実が混濁していく感じや、描写の美しさもすばらしいと思う。